大和製作所 40年の歩み 下 (使命を明確にしてからの20年間)

 

秋の夜長の心地よい季節に浸りながら、青雲の志で40年前に起業したことを思い返すと、感無量になります。

 

前回は、創業後の約20年間の振り返りでしたが、今回は20年前から今日までの20年間を振り返ると、約20年前に使命を明確にしたものの、会社の経営状況はまだ、先が見えない、真っ暗闇のトンネルの中を歩んでいるような状態で、製麺機を日々使って戴いているお客さまと、一緒に踏ん張ってくれているスタッフたちに対する、絶対に会社を潰してはいけないという、責任だけが、唯一の諦めなかった理由でした。

 

そのころ、常に自分自身に言い聞かせていたことは、「夜明け前が一番暗い」ということで、「今が一番暗い時で、一番たいへんな時だ」と、信じ続けたので、私の身体の中には、「NeverNeverNeverGive-up!」が染みついているので、私はビジネスの成果について、次のような方程式を作り上げたのです。

 

「ビジネスの成果=責任(の重さ)×夢(志)×情熱×意志力×集中力×経験×直観力×忍耐力」

「ビジネスの成果=責任(の重さ)×夢(志)×情熱×意志力×集中力×経験×直観力×忍耐力」

「ビジネスの成果=責任(の重さ)×夢(志)×情熱×意志力×集中力×経験×直観力×忍耐力」

 

20年前ころ、会社の使命「麺専門店繁盛支援会社」を明確にしたころから、やっと企業としての方向性がつかめるようになり、打つ手がだんだんと当たってきて、「年中無休365日メンテナンス」を始めたのもそのころで、「麺専門店繁盛支援会社」であれば、お客さまが最も忙しく、機械の故障の多い、日曜日、祭日にメンテナンスが出来ないのはおかしいと思い、社内で訴えたのですが、最初はなかなか理解して貰えず、時間をかけて説得したのでした。

 

「年中無休365日メンテナンス」が軌道に乗り始めたころ、約15年前に、うどん学校を開校し、4年後にラーメン学校、蕎麦学校を開校し、無化調、無添加の方針で授業を行ない、「デジタルクッキング」の手法を生み出し、現在では、世界中で、当社の多くの卒業生が活躍し、業界の進化、発展のお役に少しは役立っていて、約10年前に、念願であった小型製麺機市場で、国内トップメーカーになることが出来、約13~4年前より、営業関係と麺学校の双方で、女性の採用を始め、女性が多く活躍する会社に変貌を遂げ、現在では女性比率が約55%にも達し、すべての部門で女性が活躍する会社になっているのです。

 

通常の会社であれば、女性は受付担当になっていて、営業的な話とか、機械的な案件は、担当の男性営業員に代わるのですが、当社ではすべて女性が担当し、外回りの営業、納品も女性が担当し、国内8か所の拠点では、常時、女性スタッフがお客さまに機械の操作を指導し、美味しい麺の製法をご指導しているのですが、このようなことは、今から40年前の創業時には、想定もしていなかったことであり、時代の大きな変化に合わせ、女性の採用については、当社は先取りをしてきたことになるかも知れません。

 

使命を明確にした結果、多くのことを始めることが出来、その頃から現在に至るまでに始め、大きな成果があったのは次の通りです。

 

1.うどん学校開校(2000年)

2.うどん店「亀城庵」開業(2000年)

3.新規開業支援ビジネス「トータル・プロデユース」開始(2003年)

4.ラーメン学校、蕎麦学校開校(2004年)

5.小型製麺機市場でシエアトップ(2005年)

6.ダイアモンド社主催のドラッカー塾参加(2005年、2006年)

7.旧営業本部(60坪)建設と同時に移転(2005年)

8.商圏分析事業を開始(2005年)

9.ゴールドラット・コンサルテイングよりTOC理論導入(2009年)

10.新本社移転(600坪)(2010年)

11.ドリーム・スタジオ大阪開設(2010年)

12.新本社でのオーガニックの給食開始(2011年)

13.ドリーム・スタジオ札幌、高崎、名古屋開設(2011年)

14.東北大震災で、ドリーム・スタジオ仙台被災、東北地区での被災者の救援活動開始(2011年)

15.東京支店を品川へ移転開設(2011年)

16.東京支店でのうどん、蕎麦、ラーメン学校開校(2011年)

17.最初の書籍「ラーメン、うどん、蕎麦店の教科書」出版(2011年)

18.カンブリア宮殿で放映される(2013年2月)

19.2冊目の書籍「トップになりたきゃ、競争するな」出版(2013年)

20.3冊目の書籍「情熱」(2013年)

21.4冊目の書籍「金儲けを目指さない店だけが繁盛する」(2014年)

22.LAとシンガポールで、One day Udon SchoolRamen School開始(2014年)

23.書籍「ラーメン、うどん、蕎麦店の教科書」改訂版出版(2015年)

 

2000年にうどん学校を開校したときは、元のお粗末な本社でしたが、「はなまる」がセルフのうどん店を日本中に展開しているころと重なり、多くの生徒さんが全国から参加し、元のラーメン店を活用した教室では、生徒さんたちがソファーにかけて、熱心に私の経営講義を聞いていたころを昨日のように思い出します。

 女性たちが徐々に入社し始めたのもその頃からで、最初は部屋がなかったので、飯山工場の2階の一部を営業本部にしたのですが、直ぐに営業本部が手狭になったので、本社の近くで、事務所跡を借りて、営業本部を広げました。

 

そのごろの麺学校では、まだ十分な専門的知識がなかったので、現在経営講義で教えている内容とは、比較にならないレベルでした。生徒さんは全国から続々と集まるのですが、本社の教室が余りにもお粗末であったので、少し離れた場所にうどん学校専用の研修センターを2002年ころに設けたのです。

このころから、当社は創業以来の長い、暗いトンネルを抜け、やっと明るい朝日を見ることが出来るようになったのです。その研修センターが出来て間もなく、2004年には、本社の研修センターではラーメン学校、江東区清澄白川にあった東京営業所では、蕎麦学校を始めました。

 

丁度そのころ、マネッジメント・レベルを上げるために、ダイアモンド社主催のドラッカー塾に通い始め、当社が小型製麺機市場でシェアトップになったのも同じころでした。

 

2005年には、自宅前に用地180坪を讃匠と一緒に購入し、60坪2階建ての社屋を建設し、1回は讃匠のだし工場、2階は大和の営業本部にして、初めてのきれいな社屋に社員たちはたいへん感激したのです。総務を一番日当たりの良い、奥の場所に取っていたので、総務を奥の院と呼び、玄関から奥の院までの廊下を松の廊下と呼んでいたのです。真新しいきれいな建物が突然出来たので、近所の人たち、お客さまも驚いていました。

 

その頃、うどん学校、蕎麦学校とも生徒さんの数は順調に伸びましたが、現在の学校のレベルと比較すると、比較にならない位のレベルであり、そのころはまだ盛付の重要性も理解しておらず、現在のような際立った個性のある盛付は当然教えてなくて、盛付は生徒さんの方で工夫するのが当たり前でした。

 

経営講義は最初から行っていたのですが、最初ころは現在のように2日間ではなく、1日だけの経営講義で、教科書はプリントで、現在のような内容とは比較にならない位の内容でしたが、最初から事業計画書は使っていました。

 

但し、うどん学校の生徒さんで開業を目指す生徒さんは、そのころ既に開業していたモデル店亀城庵で、1ヶ月間実技のトレーニングをし、完全にプロになってから、開業をしていたのです。

麺学校 製麺講習

麺学校 製麺講習

 

初期の麺学校でも、開業後のチラシは絶対に打ってはいけないとの話はしていたのですが、本気で理解する生徒さんは少なく、チラシを打って失敗する生徒さんが続き、経営講義の教科書の必要性を感じたのです。

 

最初の経営講義の教科書が2011年に完成し、本の出版は、一度出来れば、2冊目、3冊目は、慣れてきたのと、メルマガ等の文章が溜まってきたので、簡単に作成できるようになったのです。

 

60坪の新しい営業本部が出来た後も、機械の製造工場は、創業直後に建設した飯山工場を継ぎ足し、継ぎ足しで使っていて、開発部門も同じように飯山工場でいて、総務、企画、営業部門と製造部門が自動車で20分の距離で離れていたので、皆の希望は一緒に仕事が出来る広い場所が欲しいとのことでした。

 

そのころ、販売金額が増え続け、飯山工場では手狭になったので、27年前に工場用地として購入してあった、綾南の1500坪の土地へ600坪2階建ての新工場を建てる計画が持ち上がり、1年位かけて計画し、着工寸前まで進んだところで、サブの銀行から、現在の本社の建物の紹介があり、普段はこのような話に乗らないのですが、たまたま、近くであったので、皆で見に行きました。

 

すると、土地が2千坪で、建物はワンフロア600坪、4階建ての建築後3年で未使用のきれいな建物が建っていて、詳しく内部を調べると、1~2階は大和製作所の工場と事務所、3~4階は讃匠の社屋と麺工場して使うと、丁度、使い勝手の良い構造になっていました。

大和の方は、2階の事務所部分は少しの改造で使えたので、5月の連休に移転したのですが、それまでの60坪の広さからいきなり600坪の広さになったので、最初は迷子になる位の広さでした。

本社工場

本社工場

 

1階は、かなり改造が必要であったので、少し遅れて7月に飯山工場が移転し、3~4階は食品工場なので、更に大幅な改造が必要になり、翌年2月の閑散期に讃匠も移転してきたのです。

 

それまで、私は9ヶ所に分散していた事業所を1ヶ所に集中したので、私の移動が必要なくなり、たいへん便利になり、建物も大きくてきれいなので、来社されたお客さまも今までの社屋と比べて落差の大きさに驚いていました。本社がきれいになったので、各地の拠点も整備すべく、大阪に拠点を新設し、その後、名古屋、高崎、札幌の拠点を矢継ぎ早に作った直後に、予定もしていなかった東北大震災が起きたのです。

 

東北大震災では、当社も少なからず被害を受けました。ドリームスタジオ仙台は、建物が傷んだくらいで済んだのですが多くの被災者が出ていたので、営業どころではありませんでした。当社のスタッフたちは約半年くらいは営業活動を一切しないで、被災者に対して、毎日炊き出し業務を行なったのです。その間、本社からは炊き出し専用車も作って送り、何度も何度も被災者向けの多くの物資を送り続けました。

炊き出し用トラック

炊き出し用トラック

 

東京の拠点は今まで狭くてラーメン学校が出来ていなかったので、同じく震災直後にラーメン学校が出来るような広い場所を探し、羽田からも近くて便利な品川に移転しました。本社を移転した直後で、ドリームスタジオ大阪、名古屋、高崎、札幌を開業した直後に思わぬ震災に遭い、当社の売上にも大きな影響がありましたが、何とか乗り越えることが出来たのです。

 

最近も想定外のことがときどきありますが、震災を乗り越えたように、想定外のことがあるたびに当社は強くなっているのです。 また、昨今の飲食業界の最も大きな課題は人手不足であり、人手が足りないために、多くの飲食店、麺専門店が売り上げを伸ばせないでいるのです。現在の当社の課題はこれからもずっと続く人手不足を緩和する対策をたくさん準備し、麺専門店の方がたの繁栄のお役に立ち続けることです。そのために、自家製麺だけにこだわらない「自家製麺代行業」で、麺の供給事業も開始致し、他にも、人手不足時代に役立つさまざまな、新しいビジネスを準備しています。

 

最期に、これからの未来における当社のテーマは「5年後の麺専門店、飲食店業界」であり、5年後の麺専門店ビジネス、飲食店ビジネスを想定してみるには、下記のような項目が参考になるのです。

 

1.既に起きている世の中の変化、例えば、生産年齢の減少、総人口の減少から、5年後を見通すと、5年後にはもっと人手不足になり、国内の市場規模が更に減少していることが簡単に分かり、サラリーマンの数、消費者の数が減少するのは、過去の日本では考えられなかったことなのですが、これからの時代、市場は縮小していき、縮小する市場とは、不景気な市場と同じことで、生き残りを戦略のテーマにし、生き残ることに一番エネルギーを注ぐことが大切なのです。

 

不景気に強く、生き残ることが出来る店とは、地域一番店であったり、食べログ点数が高かったり、その地域で突出して強い店であり、認知されている繁盛店で、従って、市場規模が小さくなる日本において、麺専門店、飲食店に共通する戦略は、商品力、サービス力、店舗力を磨き続け、地域にとってなくてはならない店になることであり、どこにでもあるような平凡な店を目指すのではなく、際立った個性のある強い店になることなのです。

 

2.業界における大きなトレンドは、健康志向・安全衛生志向・オープンキッチン・エンターテイメント志向等があげられますが、大きな時代の方向性を理解することは大変重要です。例えば健康志向では、安全な食材の使用、化学調味料、防腐剤等の不使用、料理としての栄養バランス、栄養分を損なわない調理方法などが重要視されています。但し、健康志向であったも美味しいことは欠かせません。往々にして見落とされているのは、健康志向な店舗は主に女性客ターゲットの場合が多いのですが、女性客は盛り付けの素材として、野菜だけで良いと勘違いしている店舗が多いのです。本当に重要なのは、栄養のバランスなのです。野菜類、タンパク質、デンプン質のバランスが重要なのです。女性客だから野菜だけで良いという訳ではなく、最近の女性はお肉を好む方も大勢いますので、健康に良い肉類、魚類のタンパク質類は欠かせないのです。

 

そして、盛付のきれいさも欠かせません。多くの店で出来ていないのが際立った個性のある盛り付けです。盛り付けのきれいさは、食事の楽しさの演出にも欠かせません。ビックリするようなきれいな盛り付けの食事が出てくれば、女性客から歓声が上がり、カメラで撮影が始まります。

 

3.次に、大きなトレンドとして欠かせないのは、エンターテイメント性です。レストランビジネスは楽しさの要素が欠かせなくなり、実演自家製麺で大成功した丸亀製麺は、そのファーストランナーでした。これから続々と楽しいレストランの登場が続き、同時に人手不足の解消を兼ねて、レストランビジネスにハイテクが次つぎと導入されるようになるでしょう。既に、スーパー・コンビニはハイテク機器が満載され、科学的な経営がされていますが、麺専門店、飲食店が同じような状態になってきます。規模の小さい単独の個人店はよほどの「強み・特徴」がないと生き残るのが難しくなってくるのです。

 

そして、このような変化は徐々に起き、気が付いたときには、取り返しのつかない大きな変化になっていて、昔、どんな街にもあった八百屋、魚屋、米屋等もいつの間にか、消えてしまったのです。

いずれにしても、5年後には現在の延長線上のビジネスではなく、大きく変貌を遂げた企業が生き残り、新しいビジネスモデルが多く出現しています。

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